Author: | 千慶烏子 | ISBN: | 9784908810053 |
Publisher: | P.P.Content Corp. | Publication: | August 25, 2015 |
Imprint: | Language: | Japanese |
Author: | 千慶烏子 |
ISBN: | 9784908810053 |
Publisher: | P.P.Content Corp. |
Publication: | August 25, 2015 |
Imprint: | |
Language: | Japanese |
自転車を押しながら坂道を登ってゆく彼女を見つけてマリと叫んだ。僕たちの夏の始まりだった。僕たちはその夏一緒に過ごそうと約束していた。誰にも内緒で、自転車を走らせ、一晩でいいから湖のほとりのコテージで一緒に過ごそうと二人だけの約束をしていたのだった。僕は彼女を見つけて名前を叫んだ。半袖のブラウスからのぞく肌という肌のすべてが美しく、額に結んだ粒のような汗までが美しかった。僕たちは夏の盛りの泡立つような虫の声に煽られながら…(本文より)
* * *
脱現代性の詩的方法論――。本書は『ポエジー・デコンタンポレヌ』の表題で2015年 P.P. Content Corp. より出版された。デコンタンポランという聞き慣れないフランス語は、現代性の危機に対抗するべくして千慶烏子の作り出した新しい文学上の方法論である。デコンタンポランは英語に置き直すならばディコンテンポラリー、脱構築の脱が加えられた現代性、すなわち脱現代性の方法論である。
一見すると、少年小説や空想科学読本、大人向けの残酷な童話を思わせるこれらの奇妙な物語群は、詳細に見るならば、時制・人称・性など話法の構造に意図的な混乱が持ち込まれ、その物語内容はフォトモンタージュで鋏を入れられた写真のように貼り合わされ、ニスを塗られ、異化され、デコンストリュクト(脱構築)されていることに気づかれるにちがいない。物語に鋏が入れられたぎざぎざの切れ線や合成された物語の痕跡などが意図的に残されていることにも注意を促したい。
これらの物語は物語を楽しむための物語ではなく、物語に逸脱を持ち込み、読者に意図的な混乱をもたらし、われわれの「いま・ここ」に攪乱を持ち込もうとする詩的方法論に貫通された物語である。
ある物語の祖型を現代化(コンテンポライズ)する方法に関しては、百戦錬磨の読者の皆さんならば容易に想像が付くにちがいない。しかし、これを脱現代化(ディコンテンポライズ)する方法に関してはどうだろうか。千慶烏子が本書で行なっているのは、このあたかも隻手の音声を聞くかのような、ディコンテンポライズする方法論の試みである。物語の時空に時代錯誤なガジェットが登場したり、語り手の性別や人称に逸脱が発生したり、話法の空間がねじれて、物語の外から語り手が読者に直接語りかけたり、本書では、さまざまな逸脱的方法論が駆使されている。
二十世紀の文学・芸術思潮の中で行われてきた「異化」の新しいバージョンと断じるのもいいだろう。しかし、これを現代性に対する異化と置き直して「脱現代性(デコンタンポラン)」としたところが決定的に新しい。本書の執筆された2010年代の時代背景を考えるならば、この逸脱的な方法論は遊戯性を帯びたものではなく、時代の必然性に即して真剣に検討されたものであると考えられていい。国土の崩壊を目の当たりにし、長きに渡る経済と文化の停滞に立ち上がる力を失い、猥褻な復古的政治思想が台頭する「われわれの現代性」を前にして、千慶烏子はこれを脱現代化(ディコンテンポライズ)するのである。脱現代化と言っても、現代という時代からワープするわけではない。同時代性のテンポをずらし、われわれの現代性に切れ目を入れ、われわれが当たり前だと思って疑わない「いま・ここ」的なあり方に問いを投げかけるのである。言葉を変えて言うならば、それは、われわれの現代性に対する批評的観点の持ち方、われわれの「いま・ここ」に埋没してしまわないあり方の模索が提案されているのだと考えられていいだろう。
このとき、ノスタルジックな異次元の空間や模造画の質感で合成された空間、過剰なクリシェを多用した時代錯誤な物語空間は、これを楽しむためだけでなく、われわれの現代性がいかなるものであるにせよ、決してわれわれはそれに屈することをしないという強い決意の表明であることに気づかされるにちがいない。切って貼り付けた物語の切れ目こそがわれわれの想像力の抵抗の証しであり、合成された物語の不自然な合わせ目こそがわれわれの想像力の自由の証しなのである。この想像力は楽しむための想像力ではなく、われわれの「いま・ここ」に対抗するための想像力である。ぜひ読者の皆さんは敢然と時代を疾走し、本書を跳躍板にして、われわれの現代性を脱現代化する企てに挑戦していただきたい。(P.P.Content Corp. 編集部)
自転車を押しながら坂道を登ってゆく彼女を見つけてマリと叫んだ。僕たちの夏の始まりだった。僕たちはその夏一緒に過ごそうと約束していた。誰にも内緒で、自転車を走らせ、一晩でいいから湖のほとりのコテージで一緒に過ごそうと二人だけの約束をしていたのだった。僕は彼女を見つけて名前を叫んだ。半袖のブラウスからのぞく肌という肌のすべてが美しく、額に結んだ粒のような汗までが美しかった。僕たちは夏の盛りの泡立つような虫の声に煽られながら…(本文より)
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脱現代性の詩的方法論――。本書は『ポエジー・デコンタンポレヌ』の表題で2015年 P.P. Content Corp. より出版された。デコンタンポランという聞き慣れないフランス語は、現代性の危機に対抗するべくして千慶烏子の作り出した新しい文学上の方法論である。デコンタンポランは英語に置き直すならばディコンテンポラリー、脱構築の脱が加えられた現代性、すなわち脱現代性の方法論である。
一見すると、少年小説や空想科学読本、大人向けの残酷な童話を思わせるこれらの奇妙な物語群は、詳細に見るならば、時制・人称・性など話法の構造に意図的な混乱が持ち込まれ、その物語内容はフォトモンタージュで鋏を入れられた写真のように貼り合わされ、ニスを塗られ、異化され、デコンストリュクト(脱構築)されていることに気づかれるにちがいない。物語に鋏が入れられたぎざぎざの切れ線や合成された物語の痕跡などが意図的に残されていることにも注意を促したい。
これらの物語は物語を楽しむための物語ではなく、物語に逸脱を持ち込み、読者に意図的な混乱をもたらし、われわれの「いま・ここ」に攪乱を持ち込もうとする詩的方法論に貫通された物語である。
ある物語の祖型を現代化(コンテンポライズ)する方法に関しては、百戦錬磨の読者の皆さんならば容易に想像が付くにちがいない。しかし、これを脱現代化(ディコンテンポライズ)する方法に関してはどうだろうか。千慶烏子が本書で行なっているのは、このあたかも隻手の音声を聞くかのような、ディコンテンポライズする方法論の試みである。物語の時空に時代錯誤なガジェットが登場したり、語り手の性別や人称に逸脱が発生したり、話法の空間がねじれて、物語の外から語り手が読者に直接語りかけたり、本書では、さまざまな逸脱的方法論が駆使されている。
二十世紀の文学・芸術思潮の中で行われてきた「異化」の新しいバージョンと断じるのもいいだろう。しかし、これを現代性に対する異化と置き直して「脱現代性(デコンタンポラン)」としたところが決定的に新しい。本書の執筆された2010年代の時代背景を考えるならば、この逸脱的な方法論は遊戯性を帯びたものではなく、時代の必然性に即して真剣に検討されたものであると考えられていい。国土の崩壊を目の当たりにし、長きに渡る経済と文化の停滞に立ち上がる力を失い、猥褻な復古的政治思想が台頭する「われわれの現代性」を前にして、千慶烏子はこれを脱現代化(ディコンテンポライズ)するのである。脱現代化と言っても、現代という時代からワープするわけではない。同時代性のテンポをずらし、われわれの現代性に切れ目を入れ、われわれが当たり前だと思って疑わない「いま・ここ」的なあり方に問いを投げかけるのである。言葉を変えて言うならば、それは、われわれの現代性に対する批評的観点の持ち方、われわれの「いま・ここ」に埋没してしまわないあり方の模索が提案されているのだと考えられていいだろう。
このとき、ノスタルジックな異次元の空間や模造画の質感で合成された空間、過剰なクリシェを多用した時代錯誤な物語空間は、これを楽しむためだけでなく、われわれの現代性がいかなるものであるにせよ、決してわれわれはそれに屈することをしないという強い決意の表明であることに気づかされるにちがいない。切って貼り付けた物語の切れ目こそがわれわれの想像力の抵抗の証しであり、合成された物語の不自然な合わせ目こそがわれわれの想像力の自由の証しなのである。この想像力は楽しむための想像力ではなく、われわれの「いま・ここ」に対抗するための想像力である。ぜひ読者の皆さんは敢然と時代を疾走し、本書を跳躍板にして、われわれの現代性を脱現代化する企てに挑戦していただきたい。(P.P.Content Corp. 編集部)